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サルバトール ムンディ
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久しぶりにワクワクしてみた映画。
『 The Lost Leonardo 』レオナルド ダヴィンチ の「サルバトール ムンディ(救世主)」についてのドキュメンタリー映画。映画のblog本当に久しぶりです。
2021年にデンマークとフランスが制作。
監督は、1979年デンマーク、コペンハーゲン生まれの
Andreas Koefoed アンドレアス コエフォエド。
舌がもつれるよ、笑。デンマークはバイキングなんだよね。
ソニー ピクチャーズ クラシックス が配給。Sonyは映画産業が成功したんだね。
私は レオナルド ダヴィンチ のファンであるが、(ディカプリオじゃないよ)
この映画の「サルバトール ムンディ(救世主)」なる絵を知らなかった。
New York の美術商が1,175ドルで入手した絵が、NYの クリスティ オークション 現代美術部門(訳ありそう) で4億5,000万ドル(現行最高価格らしい)で落札された絵を、美術関係者が登場してあれこれ解説していく。
この絵の修復を依頼された、修復の権威
Dianne Dwyer Modestini が時間をかけ入念に修復し、レオナルドの作品と認定したことから、レオナルド ダヴィンチ の「サルバトール ムンディ(救世主)」誕生。そりゃ大騒ぎになります。
この映画を観た夜、私はさっそく 『The World of Leonardo 』著者ロバート ウォレス という持っていたカタログを出して確認した。
このカタログは、タイムライフ インターナショナル が発行した美術全集の一つである。私はこのカタログを東京神田の古書店で手に入れた。小宮山書店のラベルが貼ったままで確認できる。かなり古い話です、笑。
とにかく素晴らしいレオナルド ダヴィンチの資料で、夢中になって貪り読んだことを思い出す。日本語翻訳は摩寿意善郎氏です。著者ロバート ウォレスはタイム社の有名なスタッフライターとある。本書のためにヨーロッパ、アメリカの美術館や図書館で1年間、集中的に研究したらしい。
タイム社はかつてUSAにあったすごく有名な出版社です。『タイム』『ライフ』は多くの芸術家を取り上げていた。特に『タイム』は時の人的な。
ロバート ウォレス氏の Leonardo を確認して、私なりの「サルバトール ムンディ(救世主)」を検証してみたいと思った。
レオナルドは、残された資料からかなりの美丈夫。ヴェロッキオ作のダビデ像は21才頃のレオナルドらしい。教養豊かで優雅な美少年といったところ。
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ヴェロッキオのダビデ像 |
Leonardo da Vinci レオナルドは1452年にフィレンチェ共和国ヴィンチ村に生まれ、1519年フランス国アンボワーズで没した。
10代でヴェロッキオの弟子になり、1472年ごろに師ヴェロッキオとの共作で受胎告知を制作している。
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受胎告知 |
1478年ごろから独立し、この頃、修道院から依頼されて、『マギの礼拝』を描いている。
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マギの礼拝 |
1482年からミラノのロドヴィコ スフォルツァ家に軍事技師として招かれている。
『岩窟の聖母』『最後の晩餐』はこの頃描かれたもの。
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岩窟の聖母 |
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最後の晩餐 |
1490年に、レオナルド(38才)がミラノに所有していたワイン畑で働いていた
サライ(10才)と出会いレオナルドが死去する直前(1518年)まで生涯を共にした。
Gian Giacomo Caprotti は 小さな小悪魔=サライと、多分レオナルドが名付けたと思う。レオナルドはサライを「盗人、嘘吐き、強情、大食漢」と表現するが、彼の美貌をこよなく愛したのであろう。
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レオナルドが描いたサライ 右 |
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レオナルドが描いたサライ |
1496年にミラノ王国がイタリア戦争でフランスに敗れ崩壊。
レオナルドは、1502年にサライをつれてフィレンツェに戻る。ルネッサンス時代の最も冷酷無情不実な暴君、チェザーレボルジアの軍事技術者となる。
この頃に『モナリザ』を描き始めている。
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レオナルドが描いたモナリザ |
その後二度目のミラノで、フランス統治下のルイ12世に仕える。
1505年に、レオナルド( 53才 )はフランチェスコ メルツィ
Francesco Melzi (14才) に出会う。
スフォルツァ家の軍事技師だったメルツィの父、ジェロラモ メルツィはルイ12世支配下のミラノの軍団長だった。メルツィは、ミラノ宮廷の名門家系出身で、礼儀作法と教養を持つ美少年だった。そしてすぐレオナルドお気に入りの弟子になり、レオナルドが亡くなるまで献身的に尽くし、生活を共にした。
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Francesco Melzi |
『聖アンナと聖母子』はこの頃のもの。
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聖アンナと聖母子 |
モナリザは複製画が多く存在するが、
サライが描いたとされるものが以下ある、
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サライが描いたモナリザの複製画 |
とてもうまいとは言い難い駄作。
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ヌードヴァージョンのモナリザの複製画 |
これはレオナルドが描いたヌードヴァージョンのモナリザをサライが模写したもの。
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サライ |
これは、レオナルドの弟子が描いたサライの肖像画。
確かにモナリザに似ている。
私は『聖アンナと聖母子』の聖母子にも似ていると思う。
また、聖アンナはメルティではないかとも思える。この時期お気に入りの弟子二人
サライ、メルティはいつもレオナルドと共にいる。
モナリザには崇高な雰囲気があり、捉えどころのない微妙な風が吹いている。
それは、サライにはないレオナルドのものと思う。
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メルティが描いたレオナルド |
このメルティが描いたレオナルドの雰囲気をモナリザに被せてみてください。
サライが描いたヌードヴァージョンのモナリザの複製画はレオナルドが修正加筆を加えていると思う、サライに出せないレオナルドの雰囲気を感じるから。
これは晩年に描かれたレオナルドの素描だけれど、この雰囲気は誰にも描けない。
いつの時代になっても輝き続けるもの。
最晩年の『洗礼者ヨハネ』はまさにサライがモデル!
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洗礼者ヨハネ |
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レオナルドの素描 |
この素描はレオナルドが描いた「人間の姿をした天使」、まさにサライでしょ。
しかも勃起した男性器がしっかり描かれている。この素描はサライとの関係を告白している。
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サライが描いた洗礼者ヨハネ |
サライが描いたものは洗礼者にならないでしょ、、、。
レオナルドの『洗礼者ヨハネ』にはサライの風貌にレオナルドの雰囲気が加わっている。
さて、今回問題になった「サルバトール ムンディ(救世主)」
私は、最初サライが描いたキリストにレオナルドが加筆修正を加えたものだと思う。
レオナルドは全ての人物に、真正面の構図を使わない。いつも微かな角度、つまりシナを造る。例えば、『レダと白鳥』、『聖アンナと聖母子』彼女たちは微かな傾きを持って存在している。『最後の晩餐』の人物像一人一人に角度を造っている。真正面はありえない。
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レダと白鳥の素描 |
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レダの頭部の素描 |
『モナリザ』も真正面ではない、微妙な傾きが崇高さや雅を創る。レオナルドにしか出来ない芸術。
おそらくサライが描いたサルバトール ムンディ(救世主)」を時々レオナルドが加筆修正し、
その痕跡が修復の権威 Dianne Dwyer Modestini によって発見されたということではないだろうか?
1516年レオナルドはフランソワ1世に招かれ、フランス アンボワーズに、サライ、メルツィと共に訪れる。フランスでの待遇で、メルツィは「巨匠レオナルドと暮らすイタリア紳士」、サライは「召使い」。これが原因かどうかは定かでないが、サライは1518年にミラノに戻り、レオナルド所有のワイン畑で芸術活動を続けたらしい。
1519年にレオナルドが死去した時、サライはこのワイン畑の半分を相続している、他に『モナリザ』と複数の絵画も相続したらしい。後に『モナリザ』と絵画はフランソワ1世の所有となる。
『モナリザ』をサライに遺贈したということは、「お前がいたから『モナリザ』を描くことが出来た、私の可愛いサライよ。」
レオナルドはメルツィ、サライをはじめ多くの親族に事細かく相続を遺言している。
メルツィはレオナルドが亡くなるまで一緒にいた唯一の弟子であり、最期をみとり、遺書の執行人かつ相続人だった。彼はレオナルドの金銭的遺産、絵画、手稿、道具、蔵書など多くを相続した。
そして、後にレオナルドの『絵画論』を編集した。これは一言では言えない大変な作業であったと思われる。
レオナルドの絶大な信頼を得ていたメルツィとの関係は、文学的想像になる。
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『ラ ベル フェロニエール』 |
1517年制作とされる『ラ ベル フェロニエール』はレオナルド作としてルーヴル美術館に収蔵されているが、メルツィの作とする説もある。 彼の教養と美貌を感じもする。
この映画 『 The Lost Leonardo 』を通してあらためて Leonardo da Vinci を体験した
画像、情報の多くをWikipedia より得ました。