2020年3月18日水曜日

エゴン・シーレ とパンデミック


死と乙女
1915


 最近、夜寝る前に聴いた青空朗読にupされている鈴木三重吉作「パナマ運河を開いた話」に甚く感動した。

 パナマ運河とは、太平洋とカリブ海を結んでいる閘門式運河である。水位の異なる運河で船を上下させて通行させるのである。この運河のおかげで、例えば太西洋スペインから太平洋に出るにはマゼラン海峡ー南アメリカの南端フォークアイランド諸島を廻る必要なく、カリブ海からパナマ運河を通って太平洋に出られるのである。1914年開通までの苦労話を鈴木三重吉が解説しているのである。


 最初、フランスがエジプトにあるスエズ運河を建設したレセップス(仏)に依頼して建設に着手した。しかし、この地域のマラリアや黄熱病によって、50,000人の職工の死亡、5億円が全て無駄になった。その後、英国人のロッス軍医及びUSAのリード軍医のおかげでその原因が蚊にあることがわかり、10年の歳月をかけてUSAのゴーガス大佐(軍医)の指揮の元、1914年に開通したのである。


パナマ運河

詳細はこちらから▶  パナマ運河

 開通から4年経って、ゴーガス大佐はロックフェラー医学研究所に所属していた野口英世を呼び寄せ、野口は黄熱病のワクチン開発にあたり、自らも黄熱病で悲惨な死を遂げた。

 又日本人の青山士(あおやま あきら)も建設に従事していた。第二次世界大戦中、日本軍がパナマ運河爆破計画を立て、青山に援助を求めたとき、彼は「私は運河をつくる方法は知っていても、壊す方法は知らない」と言ったというエピソードも残っている。

 日本が誇るべき知識人たちである。


 このマラリアや黄熱病もパンデミックの一つである。
パンデミックとは、ある感染症の世界的な大流行を云う。

 今世界に蔓延している新型コロナウィルス COVID-19 と同じである。パンデミックの大きな流れをみると、

 14Cにはペストがヨーロッパで大流行。ローマ帝国もこの病気で崩壊を早めたと言われている。

 16Cにはコロンブスが天然痘を新大陸に持ち込み、アステカ帝国やインカ帝国を滅亡した。

 19C-20Cにかけてはコレラの大流行。

 1918~1919にはスペイン風邪が大流行、死者1億人とも言われた。第一次世界大戦も軍人がいなくなり、終戦がはやまったとも言われている。

 スペイン風邪で多くの著名人も亡くなっている。画家のエゴンシーレ、グスタフクリムト、日本でも村山槐多が。

100年毎にくる感染症との闘いに人類は試練に立たされている。

 今回、エゴンシーレの伝記映画が Google play にあったので観た。28才で夭折したオーストリアの画家エゴンシーレ(1890-1918)の伝記映画である。

2016年オーストリア/ルクセンブルク 制作の映画、
監督 D・ベルナーはウィーン生まれのベテラン俳優であるらしい。


 エゴンシーレは1918年スペイン風邪で亡くなった。

第一次世界大戦前夜の激動の時代を自らの芸術に忠実に生きた画家の物語。芸術家を語るとき善悪の判断は微妙な調整をしなければならない。

 内容的には、かなり史実に基づいている。
 映画はシーレの父親が梅毒で狂い死にするところからはじまる。
シーレには、ノア サーベトラ(オーストリア)、ゴツゴツしたシーレの描写にしっくりくる顔立ち。



ノア サーベトラ

エゴンシーレ


シーレのミューズ ヴァリ・ノイツェルには、 ヴァレリー パフナー

ヴァレリー パフナー

妹ゲルティ・シーレには、マレジ リークナー。

役者はみんな知らないけど、オーストリアの俳優さんのようだ。




 シーレは妹を平気で独占し、妹もそれを喜んで受け入れている。二人は肉体関係はなかったと思われるが、気持ち的にはある。そんな状況がうまく描かれている。二人の関係は神話の中の肉体関係だ。最後までシーレはゲルティに包まれている。

 16才にウィーン工芸学校に学び、ここでグスタフ クリムトとの親交が始まる。クリムトはシーレを評価していて、彼のパトロンとも言える。1911年にクリムトのアトリエで紹介されたモデルのヴァリ ノイツェルとの同棲生活が始まる。




 母親の故郷であるチェコの田舎町での生活は近隣住民の反感を買うことになり町から追い出される。1912年ウィーンに戻っての生活においても少女をモデルにしたことで未成年の少女誘惑容疑とわいせつ罪で24日間拘留される。この時もグスタフクリムトに助けられる。しかしクリムトを演じた役者はまさにクリムトで、野卑な俗物といったらファンに殺されるかな?監督の選抜に5星を!

 1914年、向かいの隣人エーディトとアデーレ姉妹と知り合い、エーディトと結婚することになる。ヴァリとの関係の存続をものぞむが、ヴァリは従軍看護婦としてクロアチアに去り、1917年伝染病で亡くなる。別れ際に描いたとされる作品が


死と乙女
1915

「死と乙女」である。彼女と共に描かれたシーレのセルフポートレイトの代表作である。


 シーレは、エーディトとの結婚後も彼女の姉のアデーレとの関係もあったらしい。こういう性癖がシーレの芸術を創り出したと言わなければならないことも否めない。


エーディト
Edith Schiele | © Albertina, Wien




 1915年、第一次世界大戦に召集され、プラハ駐屯部隊に配属されたシーレはプラハで捕虜収容所の看守を務めつつ、戦争という経験の中でスケッチや作品の構想を続けることができたというのだから、とんでもないラッキーマンだと言える。オーストリア、ハンガリー帝国軍だから、第二次大戦だったらアウシュヴィッツの強制収容所の可能性もあり、とんでもない任務だったはずだ。従軍中のスケッチにも素晴らしいものがある。

捕虜収容所にて
1915
これは珍しく版画

 1918年対戦終了間近に、妻エーディトがスペイン風邪に罹り死亡。妹ゲルティの看病の甲斐なく、シーレもスペイン風邪で28才の若さで亡くなる。
死後一挙にシーレの評価が高まる。

 恩師クリムトもスペイン風邪で亡くなっている、ヴァリの伝染病もパンデミックである。今我々が直面しているパンデミックの一世紀前のことである。

シーレの作品は、Google Arts & Culture より共有しました。