映画のホントは、その映画の登場人物の真実、倫理であり、普遍的な人の真実ではない。どんな悪人でも変人でも、映画の主役にはあらゆる言い訳が許される。
希和子の悲劇的な、手前勝手な倫理、つまり愛する人の子を産みたいけど生めなかった、その男の生まれ変わりである子を自分のものにする。その男を愛するかわりにその子を異常なまでに愛する。皮肉なことに、本当に愛したがために、その男、妻、子に大いなる復習をすることになってしまう。
奪い取った子を道ずれに、秘密めいた宗教団体、わらをもつかむつもりの、人の縁をたよっての離島への移動。
理解しがたい行動を、そうであったのかと納得させる、監督の手腕、脚本のうまさ、役者の演技、カメラ撮影のみごとさ。これらが十全に混ざり合って良質な映画ができあがる。『八日目の蝉』はそんな映画だった。
それにしても、小豆島は美しい桃源郷だった。真実がどうであろうと、映画ではそうだった。
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